2014-03-13

「誰が教えるか」

 最初の投稿がこれってどうかなと思うのですが、最初だからこそこれで。
 実は、数日前に関連するある夢を見ました。自分が意識している以上にこの問題が心にひっかかっているのです。

 以下は2014年3月12日Twitterに投稿したもの。一部字句を改めてます。

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 以前、「△◯をやりたい」という学生に「それなら◯◯についてもひと通り調べてね」と言った。が、成果物には◯◯に関する記載がほとんどなかった。「調べたけどあまり関係なかった」と思ったらしい。しかし、△◯やるなら◯◯を押さえるのは必要な手続き。
 当然のことながら、その成果物のその穴は他の研究者から厳しく指摘された。それは「加藤は何を指導してたのだ」という批判でもあり、その批判は甘んじて受けた。経緯はどうあれ、結果的に指導できてなかったことは事実なので。

 後から気づいた。「◯◯についてもひと通り調べてね」の一言で、△◯を論じるにはまず◯◯を押さえるという手続きが研究上必要(=作法)であるということは分かる(くらいの学問的訓練をすでに受けている)はず、と私が思っていた学生が、そうではなかったということ。

 研究者(卵含む)にはその段階的ポジションに応じて身につけていく技能や作法があり、周囲もそれを前提として対応する。しかし、必要な技能や作法を身につけないまま、上のポジションに進んでしまうこともままある。

 博論目前で研究を諦めて退学した人がいた。当人も指導教員もよく知っていて、なぜそんなことになったのか疑問に思っていた。後に指導教員とその話になり、「Xの技能がなかった」「えっ!」 立派な学歴で博士課程まできていて、その技能がなかったとは。
 指導教員は当人の過去の成果物や研究の着眼点が面白いことは認めていた。その技能なしでもできるテーマを選んで後期博士課程まで上がってきたのだろう。同じようにして博論を書くこともできたかもしれない。しかし、すぐに行き詰まるのは目に見えている。
 その技能がないと判明した時点で、博論は一旦棚上げにしてその技能を身につける(最低1年、博論レベルなら2~3年かかる)努力をする(させる)か、研究者の道を諦める(諦めさせる)か、どちらかの選択肢しかない。このケースでは後者が選ばれたということ。

 博論目前で研究者の道を諦めた当人も辛かっただろうが、断念させた指導教員も辛かっただろうなと思う。もっと早い段階で分かっていればと思う。技能や作法が不十分であることを見逃してはいけないと、指導に当たる学生についてはもちろん自分自身についてをも含めて、自戒。

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 以上がTwitterへ投稿したものです。

 私が指導している学生たちは研究者になるわけではありませんが、多くが小・中・高の教員や地方公務員・準公務員を目指しています。大半は出身地(地方)に戻って就職します。
 しっかりとした仕事をする大人になってほしいと切に思っています。

◇参考:5号館のつぶやき「研究の作法を誰が教えるか」

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